フルーツオクダの歴史

創業前

1910年(明治43年)3月10日 阪急電鉄最古の駅のひとつ「服部天神」駅が出来る。そこから「服部」駅に改名したが、2013年(平成25年)12月21日に「服部天神」駅に改称。

服部駅が出来たその年に初代フルーツオクダ店主「奥田鹿蔵」がリアカー一つで商売を始める。当時住んでいた豊中市小曽根から服部駅まで、リアカーを押し歩き、販売し服部で地盤を固めていった。

「余談ですが、当店がある豊中市は「高校野球(全国高等学校野球選手権大会)」発祥の地で、第一回大会は、1915年(大正4年)に豊中グラウンドで開催され、当時の学制から正式名称「全国中等学校優勝野球大会」でした。これが今の甲子園に繋がる第一歩です。

創業期

1926年(昭和元年)豊中市小曽根から現在の場所(服部)に移住と同時に店を構える。(オクダフルーツ創業)

当初は、果物以外にも野菜や砂糖、卵など様々な物を販売し、現在で言うところのスーパーのような販売スタイルだった。

その後、「奥田寅三郎」(2代目オクダフルーツ店主)そして、尋常高等小学校卒業後すぐ商売の修行に入った「奥田ミ祢子」と婿養子として結婚した「奥田平一」(3代目オクダフルーツ店主)が昭和25年に代を引き継いだ。

発展期

昭和61年に60歳という若さで「奥田平一」が亡くなり、「奥田ミ祢子」一人で店の経営を継続するのが困難になる。しかし「奥田ミ祢子」の代々引き継いできた店をなんとか守りたいという強い思いを知った、当時29歳だった息子「奥田虎一」は、勤務していた製パン会社を辞めて、店を継ぐ事を決意する。

果物や、経営の知識がほとんどなかった虎一は、まず一から果物をありとあらゆる方法で勉強し、親はもちろん、色々な果物屋から経営のノウハウを学んだ。時には、東京の銀座や新宿の名店に飛びこみで、何度も何度も頭を下げて商売の秘訣を教えてもらったこともある。

様々な経験から、他にはないプロの果物屋になるには、「目」が一番重要だと確信した。

それまでは、中央市場に前の日に欲しい果物を電話で注文し配達してもらうスタイルだった。しかしこれでは、並べる商品が他の果物屋と同じになってしまう。「果物はお菓子などと違って自分で味付けが出来ない、また、同じ産地の同じブランドでも、温度、気候で年ごとに味がバラける、市場で入荷品を見極め、店頭にいかにおいしい果物ばかりを並べられるか、その確率へのこだわりが高級店と一般店を分ける」そう気付いた虎一は、毎朝自分で中央市場まで仕入れに行き、自分の目にかなった、美味しい果物だけを厳選して買うようにした。毎朝3時半に起きるのだから、当然起きるのが辛い日もあるが、美味しい果物をお客様に提供したいという気持ちにはかえられない。

この時期から、経営も一新し、隣の建物を購入し増築、そして2回の店舗改装を行い、ギフトをメインとする店構えにシフトチェンジした。

そこで一番初めに目を付けたのは、今でも変わらず、当店の看板商品の「メロン」である。その中でも最高級といわれる、静岡のクラウンメロンに力を入れた。

メロン専用のガラスケースを特注し、たくさん並べたが、当初は損ばかり。メロンは中央市場から買ってきても数日で食べ頃が来る。目先の儲けに走るなら、柔らかそうな物から順に売った方がいい。しかし、メロンを店の看板と決めたからには、「フタを開けたら中身がグジュグジュ」などというぶざまな売り方だけは決してしなかった。柔らかくなりかかったら、定価8,000円でも、1,000円で飲食店などに使ってもらった。

口コミで味の評判がついてくるまで、3年間は赤字を辛抱した。しかし次第に、お客様の信用が付き、多い日には、30個近く店頭に並べ、ピーク時には、年間2200から2300個売れるまでに成長した。

現在

信用が口コミで広がり、有り難い事に遠方からわざわざ御来店して頂けたり、また地方発送など、たくさんの注文を頂いておりますし、これからも良い果物を厳選して、販売するよう日々精進してまいります。何卒宜しくお願い申し上げます。スタッフ一同御注文を心よりお待ちしております。

最後に、当店の理念「商売は信用が第一」。この思いは今でも一貫して変わりません。